脆弱な国内の市場構造

金頼みからの脱却を

流動性の拡大。まさに、国内商品先物市場の最大の懸案であり、究極の課題である。どんなお題目を掲げ、どんな目標を上げようとも、国内のマーケット自体の拡大がなければ、市場も業界も衰退の一途をたどり、いずれは金融・資本市場の一部となるか、市場もろとも消滅の憂き目に至るのは必定である。規制があるから市場が縮小するのか、市場・業界の側に産業インフラとしての存在意義がないから後退を余儀なくされているのかはともかく、国内に商品先物市場が存在することが法的に保証されているにもかかわらず、社会のなかに市場の機能と業界の役割が認定されていないことが、流動性枯渇の最大の要因だとしたら、何としてでも社会認知の確立によって自らが突破口を見い出さない限り、日本の商品先物市場の未来はあり得ないということになる。

消えた数値目標

 結局、国内市場は金次第という状況にあるのは周知の通りである。2月の総出来高は310万枚台と2011年9月以来1年5ヶ月ぶりに300万枚台を突破した。一日平均出来高も16万枚を超えた。しかし、今月に入ると為替市場における円安が進行しているにもかかわらず、国際市況(ニューヨーク金・期近)が完全に膠着商状に陥ったことを受けて金の商いにブレーキがかかった途端に全体の出来高も減少。一日平均は2月の16万枚から12万枚台に急速に縮小してきた。2月の金の出来高(標準ミニ取引)は五割を超えている。実は、3月に入ってからも金は全体のほぼ50%を占めているものの、結局、金の増減が国内市場の浮沈を握っていることは明らかである。

 業界人の一部には、「このままでは、国内の商品市場は”金の市場”になるだろう」との声があるが、事態はまさにその方向に進んでいるようだ。かりに商品先物市場が産業インフラとしての基盤を目指すのだとしたら、「金の」市場となることは自己否定以外の何物でもないということになる。東京商品取引所(江崎格社長)が8日発表した中期経営計画(2013-15年度)によると、これまで経営計画では明示されていた取引高の数値目標(一日平均取引枚数)が姿を消し、「損益分岐点(取引高)を大幅に引き下げる」ことで収益を確保するとされている。つまり、もはや数値目標を掲げることができなくなっているともいえよう。つまり、出来高目標を打ち出すことのできる経営環境にないことを取引所自体が前提とするしかない状況にあるわけだ。

危機感は共有

 東商取としては、「金以外の商品(石油、ゴム、農産物・砂糖)の活性化」を図り、「電力先物及びLNG先物市場創設の検討」、「石炭、銅、排出量取引などの上場に向けた研究」を行うとしている。しかしLNGや電力先物の上場は経済産業省の意欲はともかく、かつて石油製品が上場されたときとは比較できないほどの関係業界の反対論が予想されている。その成否の行方は不透明ではあるが、「金以外の商品の活性化」が必要という東商取の認識は全く正しいというほかない。とりわけ、農産物・砂糖市場の再生は急務ではないだろうか。

 単純比較にさはどの意昧はないとも考えられるが、たとえば今年1月の東京穀物商品取引所の出来高は7万5895枚だった。これに対して、2月の東商取の農産物、砂糖市場(8月まで)を含む東商取の農産物・砂糖市場の出来高は8万8132枚と、16%強の増加となっているが、いかにもその市場規模は貧弱といわざるを得ない。大阪堂島商品取引所に移管された東京コメの出来高低迷を含め、農産物の復活はまさに待ったなしの業界テーマではないだろうか。そもそも、東穀取が解散に至ったそもそもの原因は、出来高不振による同社の経営破綻によって、農産物や砂糖市場が消滅することを危惧した株主=業界が東商取(東京工業品取引所=当時)に移管することを求めたことにあった。つまり、東穀取を潰してまで守ったハズの農産物市場が現状のままでは、東商取の経営目標がいうとおり、金以外の商品の活性化がなければ現状を維持することすら困難という現実がある。

賢人会議でも…

 金のシェアが五割を占めるという国内商品先物市場のアンバランスな構造は、それだけ金が持つ先物商品としての存在感、パワーを如実に示しているといえるが、それだけ脆弱なマーケットであることの証左ということになる。すでに、たとえば営業の最前線にある外務員の資質として、金以外のセールス能力不足という問題が表面化している。それは、金はすでに社会的に知名度、認知度が確立しているからでもあるが、それならなおさら、他の上場商品の積極的な理解や説明を社会に対し発信し、認知度を向上し、実際に取引してもらうという努力が業界に求められていることになる。もちろん、日本商品先物振興協会、各取引所ともそれぞれの取り組みに努めているのは事実であるが、コメの売買不振への対策を含め、いまこそ業界人の叡智を結集(賢人会議)して、事にあたることが望まれる。