もはや不作為は許されず(9/1号・紙面)

不要でないなら政策出動を

 通常、これほどひとつの業種(業界)や特定のマーケットの業績や市場(取引)の不振、落ち込みが続いたとしたら、当該業種の当事者はもちろん、所管行政(政策当局)が何らかの対策や政策出動を行うことになるのが当然の流れではないだろうか。ところが、いま、国内の商品先物市場がかつてない低迷に陥り、取引(受委託、ディーリング業務)全体の激減によって取引業者の経営を圧迫。収益悪化はもちろん、業そのものの先行き不透明感から、業務廃止や日本市場から撤退するといった経営判断を選択するといったケースが目立ちはじめている。事ここに至ってもなお取引所、業界はもちろん、政治や行政からこれといった危機感や緊急の議論が沸き起こらないのはなぜか。

姿勢(ポーズ)は不要

 商品先物市場は不要なのだろぅか。かつて、商品先物取引を巡るトラブル多発を受けた委託者保護論の台頭のなかで、勧誘規制強化が導入された2004年の法改正や、不招請勧誘の禁止が法制化された現行の、商品先物取引法への移行に際しても、「それほどトラブル防止が必要というのなら、市場そのものを閉鎖すれば良い」という設問について行政は、むしろ産業インフラや市場間競争力の強化という観点から、国内(商品先物)市場の必要性を強調するという姿勢に終始してきたのは周知の通りである。

 それは文字通り、姿勢(ポーズ)に過ぎなかったといえるが、たとえば商先法施行一年が経過した総合取引所を法制化するための金融商品取引所法改正案への対応を考えるとしてスタートした産業構造審議会商品先物取引分科会においても、結局、商品先物市場の将来に向けて、そのために何をすべきか、どうあるべきかを真剣に論議するといぅよりは、総花的な(=具体論に欠ける)市場活性化(振興)策と、旧来からの弁護士や消費者団体による硬直した委託者保護至上主義の規制強化論を単純に並存させるというパターンが繰り返された。終わってみれば、いつか来た道、何度も見せられた商取行政を追認するだけのセレモニーでしかなかったのではないか。その結果として、行政は現在の崩壊寸前の市場や取引業者の経営悪化についての責任を頬被りしたまま、総合取引所化するにしても、商品取引所ごとの単独での継続にしても、形の上では行政権限が拡大するという、〝焼け太り″を達成しようとしている。

民が滅ぶ前に

 まさに、官栄えて民滅ぶ―の図ではないか。確かに、様々な課題や行き詰まりを抱えてまさに問題が山積する日本にあって、商品先物が重要な政策テーマとなることは難しいのは事実である。証券を含めた国内の金融・資本市場ですら、国際的には相対的な地位低下やプレゼンスの希薄化に直面している。そうしたなかでの総合取引所構想でもあるが、世界のすう勢が、すでに国境を越えた取引所の合併や市場統合に進んでいるなかで、小さなパイでしかない国内市場の再編にすら徒らに時間を費やしている日本の現状は周回遅れ以外の何物でもあるまい。

 行政も業界じたいも状況の変化に対応できないまま、国内市場は日毎に衰退の一途を辿っているのが実情である。国内にこれだけの個人金融資産を抱えながら、そうした資金や層から完全に無視されているのはなぜか。その答えはあまりにも明らかである。それは、社会が、あるいはもっと厳密にいえば、個人投資家も法人投資家も、国内の商品先物取引のありようについて全く信用していないからである。それは個々の取引業者だけではなく、取引所も業界団体も、そして商取行政についても同じである。とりわけ個人投資家にとっては、それらのすべてが著しく信頼性を欠いていると考えているからこそ、自らの資産を運用しようというときに、商品先物取引を選択するという社会的な動機付けがないことが、世界的にこれだけ商品先物への投資ニーズが高まるなかで、日本市場だけが沈み込んでいる由具因といえよう。

信頼の源泉とは?

 リーマンショックにせよ、現在のEUの債務危機に端を発する世界的な金融不安にせよ、その背後で実物資産である商品は、金であれ穀物であれ、その時々の主役を交代させながら、絶えず市場の活況を継続している。それらを循環物色することがヘッジとなり、資産の保全や運用先となることで、世界の先物は成長を続けているのである。日本だけがその果実の枠の外にあるとしたら、それこそ国益を損なっているというべきであろう。過剰で不必要な取引規制が、自己責任の軽視に繋がるかたちで市場のありようを歪め、そのことがマーケットとしての機能発揮を阻害することで自らを縮小させるという悪循環が国内市場と業界の衰退に拍ヰ早をかけている。このスパイラルに歯止めをかけることこそが政策当局の責務ではないか。信頼は委託者保護一辺倒ではなく、市場参加の公平性と自己責任原則の確立のなかからこそ、もたらされるのである。